「節度?」彼は伝道者ででもあるかのように机に躍り上がった。「節度だと? それは凡庸と、恐怖と、迷妄の別名にすぎない。悪魔が言うもっともらしい戯言だ。誰も幸福にしない不安定な妥協だ。毒にも薬にもならないような言い訳がましい人間の言葉だ、怖くて自分の意見も言えないこの世の傍観者の言葉だ。笑うことも泣くことも、生きることも死ぬことも怖れる人間の言葉だ。節度ってのは」――とどめの一言を投げつけるべく、彼は深く息をついた「悪魔お手製のぬるい茶だ」
――ソクラテス
Way of the Peaceful Warrior
ダン・ミルマン著

「どうしていつもそう気を張っているのか? どうしてもっと笑わないのか?」両親もガールフレンドも、妻も数人の親友も、それから職場の知り合いも、誰もがこう問いかけてきた。ありとあらゆる人が「どうして肩の力を抜いて、羽目を外して、楽しむことができないのか?」という質問を何らかの形で問いかけてきた。教師からは親子関係の問題ではないかとやんわり指摘された。客観的に物事を見ることができ、傾聴に値する意見を持つ人々はみな同じことを問うてきた。私の母は陽気な外向性人間で、新しい人に出会うことを喜びとしているが、そんな母はきっと新生児室で赤ん坊を取り違えたのではないかと疑問に思ったことがあるに違いない。

私は恋人からフラストレーションと皮肉と、そして嘲笑を交えた怒りをぶつけられ続けた。その声は何年もの間、心の中で反響を続けた。恋人にとって私は邪魔者だったのだ。恋人の女友達は話好きで、私は打ち解けることができず、したがって上辺だけのハグやほほに空疎なキスをするといった外向的な社会スキルを伸ばさずにいた。羽目を外して溶け込もうともしたが、仲間に入れた感覚はなく、いつも隔たりと居心地の悪さを感じていた。きっと周りの人もそう感じていたはずだ。

競うことをやめ、何も考えずに一日を過ごす喜び。他人と一緒に過ごすのもいいが、もっぱら自分の顔を鏡で見ながらそんな日を過ごすシンプルな喜びに、どうして満足できないのか? 成長への絶えざる欲求は、どうして万事を使命へと変えるのか? 流水に乗る木の葉のように無為に過ごそうと何度も試みた。目的もなくただ存在し、やってくる人生をそのまま迎え入れる、現状に満足するそんな暮らしの一瞬一瞬を私は嫌悪した。一瞬をゆったりと過ごす代わりに、私は内なる戦いに臨んだ。多大な負荷、不可能な目標、あるいは一連の困難な課題がなければ、絶え間なく動く私の心のエンジンは退屈によって自壊してしまう。

私は今52歳だ。もう歳だと認めてしまい、余生を安逸に暮らして、それから柔らかな病院のベッドに入って静かに穏やかに死んでいくことがなぜできないのか? なぜなら、私は一度たりとも諦めることができなかったからだ。私は他に生き方を知らない。私は人生という冒険と、そこから浮かび上がってくる興味深い課題を楽しんでいる。好奇心という名の底深い水の中で泳ぎながら、世界の謎を解きほぐしていき、新たな挑戦がもたらす熾烈さを楽しんでいる。

私は28歳で初めて武術の道場に入門した。32歳の時には水上スキーを始め、スラロームコースを滑った。38歳の時にはスキーを学ぶため、カナディアンロッキーに足を踏み入れた。そして今年、私はモータースポーツ、ヘリ・スキー、スカイダイビングのダイナミックな世界に飛び込んだ。ハードルが高ければ高いほど、そして行き先が予測不可能であればあるだけ、旅がもたらす満足感は大きくなる。不断の探求を続け、自然界についての知識だけでなく、人間として私に何ができるかをさらに知っていくことが私には欠かせないのだ。

50歳の節目を迎えてから、新しい質問を聞くことが増えた。「ダン、いつまでこんな無茶を続けるんだ? いつになったら遊びをやめて、大人の仲間入りをするのか?」

私の答えはこうだ。「決してやめない。私は遊んでいるわけじゃないんだ」

この質問は私にとって驚きだった。どうして自発的に喜びから遠ざかるのか? 好奇心への扉を自分から閉める理由などあろうものか? いったい何歳になれば、新しい目標を立てるには年を取り過ぎたと言えるのか? 私は仕事や遊びを引退し、新たな挑戦を求める自分の衝動を昇華させるつもりはない。新たな目標を追いかける好奇心とひたむきな姿勢はいささかも衰えていない。私は探求を続け、自分の身体と精神にまだ隠れている能力を発見し、たまに再発見していく。それ以上に好奇心を刺激するのは、自分の感情のより深い部分、特にそこでだけ体験できる満足感の共鳴を体験することだ。この世に別れを告げるその瞬間までに、そのすべてを味わいたい。

私は険しい山腹のスキー中に持てる力を出し尽くした末に、あるいはグリーンめがけて飛んでいく長くゆったりしたドローショットに歓声を上げながら、でなくば知力を振り絞って6手先まで読みながらチェス盤に突っ伏して最後を迎えたい。心臓が最後の血液を送り出す瞬間を、私が心の鎧を脱ぎ捨てられるほどの信頼を寄せる女性の腕に抱かれて迎え、そこで死ねればさらにいい。

私は52歳になるまでの間、人生のほとんどを銀行業界、テクノロジー業界、そしてスポーツという熾烈な競争の世界にどっぷり浸って過ごしてきた。また何年もの間内省にも取り組み、構造化されたプロセスと遠大な戦略に対する自分の考えや反応を入念に観察してきた。山ほどの間違いを繰り返したことで少しだけ成熟し、おそらくほんの少し知恵もついたのであろう、自分が高いパフォーマンスを発揮できたのはどんな時だったのかが分かってきた。驚くべきパフォーマンスを発揮できた希少な瞬間はいつ

も、壮大で不可能に近い目標が、それを達成するための段階的な計画に先立った時に訪れていた。

本書はもともと、私の内面に潜む怪物への挑戦を記録するための日記であった。その怪物とは、生涯私を苛んできた高所恐怖症だ。挑戦が始まると、日記がしだいに変化を続けるミステリーへと変わっていったことに気づいた。日々新たな洞察が明らかになるにつれて、私が52年間の人生を通して自分の最大の敵に立ち向かうための準備をどのように進めてきたかを考えた。最後に私は決定的な勝利を収め、満足感とともに達成したという証のチェックマークをつけるのか、あるいは自分が抱えるいくつもの弱点という影の中に迷い込んでしまうのか? 日を追う毎にミステリーへと変貌していくこの日記は、最終的に回想録へと姿を変え、私と恐怖との親密な関係を映し出す鏡と化した。

これは、そんな物語である